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| 制 作 雑 記 |
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| 平成16年12月初旬 | ||||
【 プロローグ 】 |
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| いよいよ2005年、平成17年が始まった。酉年ということで母が生前「酉年は“採り”に行くと言って、十二支の中でも何か始めるには良い年だよ。」と言っていた。母曰く、十二支にはそれぞれ役割が決まっていて、例えば寅年は何をするにも慎重に考え、決めたら即実行するのが良いそうだ。午年は忙しいだけで、商売にならないとか……? 家を建てるなら辰年だよと言うから、辰年の辰と家が建つの建つの掛け言葉だと思っていたら「それは、辰が水神で昔は火事が怖かったから、水神の年に家を建てて守ってもらうんだ。」と言っていた。因みに、これは母の母から聞いた話だけどチョッと複雑なのである。そんなこんな十二支の干支にケチを付けたり有難がったりで、コタツに入って盛り上がるのである。 まして九星暦など有ろうものなら、それは、も〜〜大騒ぎで「誰々は今年の星回りが悪いから、商売はきっと上手く行かない」とか「親戚の誰々は今年幾つになるんだったかねぇ〜?確か申だって言ってたから今年××歳だね〜ェ、それじゃ〜慢性消化器病に注意って書いてあるよ!!」など、ご近所版ワイドショーの花盛りで、女は歳に関係無く噂話が好きなのだ。と、納得したのである。 その間、コタツの上のミカンとアラレとオカキがどんどん消費され、見る見る内に消滅していくのであるが、無くなっては茶箪笥の奥から日ごろ目にすることの無いオカキやアラレ、果てはゼリー菓子やピーナツまで登場する。女の物を隠す術の鋭さ凄さをマジマジと見せ付けられる年の瀬、年初めなのである。ま〜ぁ、昔から男より隠し場所を一つ多く持っているのが女である。
正月の数日、小生はソワソワ・ワクワクする。それはもう遠い昔、昭和30年代半〜40年代前半の小学生の頃、時あたかも東京オリンピックに向かって突き進んでいた頃にまでさかのぼる。その当時、チョッと大きなプラモデルは高額商品で、日常的にポンポン買うという代物ではないのである。日々コツコツ貯金をするか、親戚縁者が来訪の折、チョッとこれと差し出されるお小遣い(可愛らしい封筒に入った五百円札や千円札)を如何なる誘惑に屈することなく貯め込むかなのだ。誕生日、クリスマス、正月のお年玉といった私的歓迎行事、若しくは年中行事以外絶対に買えなかったのである。 そういう状況のもと、小生の性格と家庭環境からして、コツコツ貯金と来訪者小遣いは有り得ないことで削除しなければならない。後は私的歓迎行事と年中行事で、取分けクリスマスからお正月に掛けての最大の関心事は、お年玉なのである。当然、幾らもらえるかプラモは何を買おうか??年の瀬から正初という一種異様な心持で、想像は膨大なエネルギーと化し、津波のように夜な夜な枕元に押寄せるのである。思いは千路に乱れ「寝ては夢、起きては現、幻の」なのである。そんな子供時代を過ごしていた性なのか、なぜか心が揺らぐというか、この歳になっても落ち着かないのだ。 ソモソモその揺らぎの源は、正月の“お年玉”という日ごろ手にしない臨時収入をポケットや掌に忍ばせ、彼の店に一目散という図式ができ上がっていて、小生だけに止まらず近所や近郷近在のガキどもで模型屋さんは溢れ返るのだ。小生が足繁く通っていた模型屋さんも同様であった。 そのお店はラジコンやUコンが主でプラモが従の関係なのだが、店の用地占有率から言うとプラモが7割でラジコンが3割といったところだ。そして、その3割の商品は小さな部品類やバッテリーのような物で、ラジコン飛行機の機体などは店内の天井や壁に数機展示してあるだけなのである。しかし、その部品の高額なことと言ったら驚きで、チョッとしたビニール袋に入った何だか解らないけれど、筒状の真鍮と黒いオーリングが組み合わさった、一見何かの弁のように見えるものが2千何がしとかである。おそらくエンジンの周辺部品なのか、ステンレスと思しきピカピカに磨かれたキャップのようなものと黒ずんだ金属のガッチリした部品が1万2千何がしとか、そのような部品がガラスケースの中に所狭しと置いてあるのだ。 そして30代から50〜60代の小父さんたちが、ストーブを囲んでラジコンやUコン談義に花を咲かせ、スクロールがどうの宙返りから反転する時がどうのと、両手で翳したり横や斜めにしたりしている。かたわらに、茶筒と急須が置かれ、菓子盆には煎餅やセロファンに包まれたキャンディーが盛られ、店のご主人はその大口取引関係者達とお茶を啜りながら、ある時は真剣にある時は大笑いして、毎年大いに盛り上がっていたのである。小生は店の近所だったので、ご主人と良く話をしてたこともあり、そんな時でも「お〜〜いらっしゃい」と声を掛けてもらえたのだ。 それに、あらかじめお年玉で買うアイテムを決め、ご主人に言っておくので棚には並べず手渡ししてくれるのである。これは凄いステータスなのだ。第一に、ご主人から“いらっしゃい”と言われること。第二に、予約をしているので誰よりも先に、希望のアイテムを手に入れることができること。片やお金を握り締め集まった連中は、ご主人の奥さんが担当するのだが、扱いは至って乱雑である。特に元日からの三日間に付いて言えば、それはもぉ〜凄まじい状況で、箱を開けて中身を床に落す者、箱に鼻水を垂らす者まで、日ごろプラモに縁も所縁もない者までが集うのだから仕方ないんだけどね。 |
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| その当時の模型屋さんは、正月のお年玉を当てこんで、多岐にわたるお遊びアイテムを店先から店の奥までそこかしこに置いて、さながら現在のディスカウンターのようになっていた。友達や兄弟その混成部隊が町内はおろか、自転車で遠い町から誘い合って買いに来るのである。実際、買うのはそのグループの中の一人か二人で、それ以外はプラモと何ら関係の無いものを買うか、何も買わないで駄菓子屋で買った、割り箸の先に付けた飴などしゃぶりながらのお供なのだ。そんなお供でも一応客なのである。今から考えればプラモ屋の奥さんにとって、正月は掻き入れ時とは言え、恐ろしい日々であったであろうと想像する。 そして、その労働対価として得るものは、余りに少な過ぎることは容易に想像できるからである。小生を含めこの連中は何でも触りたがる。到底買えないものでもお構いなしに触るのである。触るだけなら兎に角、汚すのである。モデラーなら誰でも経験があると思うが、仕舞に奥さんの逆鱗に触れるようなやからが現れ、「あんた達出て行ってちょうだい」という金切り声が店中にこだまする。それを聞くやラジコン談義に興じていた小父さん連中やご主人が、ギロッと睨むのだ。すると流石のガキどもも、一時的に大人しくなるか店を出るのだが、せいぜい5分か10分程度で、またアメーバのように集まって来る。これを三日間、朝から夕方までやっていたのが、昭和30〜40年代の正月の模型屋さん風景である。 小父さんモデラーにとって真に貴重な数日間、新しいこの一年をいかに過ごし、どれだけの作品を手掛けるか、一年の計はその数日に有りということなのだが、お神酒という誘惑には、いささか弱いし〜〜。トクトクトク……………、計より閨だよね〜〜。 |
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| その当時の模型屋さんは、正月のお年玉を当てこんで、多岐にわたるお遊びアイテムを店先から店の奥までそこかしこに置いて、さながら現在のディスカウンターのようになっていた。友達や兄弟その混成部隊が町内はおろか、自転車で遠い町から誘い合って買いに来るのである。実際、買うのはそのグループの中の一人か二人で、それ以外はプラモと何ら関係の無いものを買うか、何も買わないで駄菓子屋で買った、割り箸の先に付けた飴などしゃぶりながらのお供なのだ。そんなお供でも一応客なのである。今から考えればプラモ屋の奥さんにとって、正月は掻き入れ時とは言え、恐ろしい日々であったであろうと想像する。 そして、その労働対価として得るものは、余りに少な過ぎることは容易に想像できるからである。小生を含めこの連中は何でも触りたがる。到底買えないものでもお構いなしに触るのである。触るだけなら兎に角、汚すのである。モデラーなら誰でも経験があると思うが、仕舞に奥さんの逆鱗に触れるようなやからが現れ、「あんた達出て行ってちょうだい」という金切り声が店中にこだまする。それを聞くやラジコン談義に興じていた小父さん連中やご主人が、ギロッと睨むのだ。すると流石のガキどもも、一時的に大人しくなるか店を出るのだが、せいぜい5分か10分程度で、またアメーバのように集まって来る。これを三日間、朝から夕方までやっていたのが、昭和30〜40年代の正月の模型屋さん風景である。 小父さんモデラーにとって真に貴重な数日間、新しいこの一年をいかに過ごし、どれだけの作品を手掛けるか、一年の計はその数日に有りということなのだが、お神酒という誘惑には、いささか弱いし〜〜。トクトクトク……………、計より閨だよね〜〜。 【二式複座戦闘機 キ−45改 甲 “屠龍” 】 まず、第一に首を捻るのはこの屠龍という愛称に付いてなのだが、何か変なのである。通常、旧帝國陸軍機の場合“龍”を付けるのは爆撃機と相場が決まっている。百式重爆は呑龍、四式重爆は飛龍といった按配になのだが、それでは九七重爆は、それに〜九九双軽は???××龍の愛称がなぜ無いのか???なのに、二式複座戦闘機になぜ“屠龍”なのか???不思議の不思議なのである。 そして第二に首を捻るのは、キ-45改の“改”である。確かキ-45というのは、陸軍当局から不採用になって事実上再設計をした。つまり(後でもう少し掘り下げる)別の機体と言っていい筈で、キ-46とかキ-47になぜなっていないのか???不思議の不思議なのだ。そうなのである、このキ-45改という機体は秘密空間と相俟って、思議の影が潜むキ-45怪なのである。摩訶不思議のキ-45改は数奇な運命を背負わされ、ひたすら過酷な環境を追い求めるかのように、自らを変貌させその使命を全うしたのだ。 【 世界の開発背景 】 時は昭和11頃のこと、航空機はヨチヨチ歩きを脱し、輸送に旅客にと活躍の場を広げ、産業を構成するまでに成長し、欧州や米国と言った広範囲に都市が点在している國や地域には、重要にして不可欠な存在になっていた。軍用機も複葉機から単葉機へ、羽布や木製から全金属ジュラルミン製へと発達し、高速の爆撃機が欧州各国で研究や開発されだすと、戦闘機より早い爆撃機なるものまで出現する事態に、これを迎え撃つ戦闘機や掩護する戦闘機をどうするか?? そういう新たな問題が持ち上がって来た。では、戦闘機をどのように発展発達させるか?各国各様の模索の中、戦闘機を従来の格闘戦の見地から考えた場合、機体は軽く軽武装で、巴戦にいかに勝利するかである。一方、長距離攻撃や爆撃機の掩護といった見地から考えた場合、往復の燃料と武装、敵戦闘機との格闘を考慮していかにまとめるか??という未知なる疑問に答えなければならなかった。矛盾と合理性のバランスをどのようにまとめるかが深刻な問題であった。 巴戦を基調に、防空や制空といった従来の戦闘方式中心に考えた戦闘機は、エンジン一基に武装した従来型を発達されば良いのだが、常にエンジンの出力に依存することになるので武装や燃料の搭載に自ずと限界がある。一方、より高出力で高速度を得ることを考えた場合、エンジンは一基から二基の双発にすれば、機体に余裕を持すことができる。武装を胴体に集め重武装化し、長距離進行にも耐えられる。大量の燃料積載が可能で、搭乗員を二名にすれば空戦も可能である。対艦・対地・掩護といった各用途にも対応できるということで、戦闘機双発論なる考えが頻りに論ぜられるようになった。 当時、各國が保有するエンジンは出力に若干の差は有るが、大よそ800〜900馬力くらいのところであった。この夢のような戦闘機話に欧米各国は挙って開発に着手するのだが、現実はそうそう甘いものではなかった。実際、作って見ると単発の戦闘機と速度に於いて大差が無く、機体が大きく重いため運動性では勝ち目が無い、不利な巴戦を回避するスピードも、期待した程はないのである。これは航空機をどのように運用するかなどの戦略、戦術思想がどの国の軍隊も確立されないまま、エンジンは二基積んだ方がいいとか、長距離攻撃をするとか、冷静に考えれば夢想家のたわ言に近い話であることが分かるのだ。だが、世界中の航空機関係者が、まるで熱病にでも取り憑かれたかのように、兵器優先の用兵が伴わない中途半端な双発戦闘機を作ってしまったのである。
【 国内の開発背景 】 一方、旧帝国陸軍もキ-45の製作を決定した。しかし、旧帝國陸軍とて思想が固まっていた訳ではなく、兎に角作ってみようということであった。機体は双発単葉複座とし、その他武装や燃料それに乗員数などの仕様(一次試作機)が決められ、昭和12年12月末に川崎飛行機が試作に着手した。欧州各国同様、暗中模索でエンジンの開発(ハ20乙)、川崎飛行機として初の双発戦闘機の設計及び製作は、苦難以上の障害が待ち構えていたが、何とか14年1月完成に至った。 しかし、試験飛行と言っても殆ど飛べない状態で結果はさんざん、試作のエンジンがまともに稼動しないことや主翼のナセルストール(多発機の場合主翼にエンジンを取付けるが、その影響で主翼本来の役割である揚力が損なわれ、振動や機体の不安定要因となる)の問題などで、事実上の失敗であった。この失敗要因を簡単には言えないが、まともなエンジンを作れなかったことが大きく影響している。 キ-45一次試作の失敗を踏まえ、エンジンを中島製ハ25エンジンに換装し、エンジン回りを再設計して二次試作機とし、再度15年7月飛行試験を行った。結果は、ナセルストールによる事故を起こしたが、最大速度520km/hを出して試験は上々の成績であった。しかし、軍当局としては不満の残るところで、このハ25換装機も不採用としたのである。すでに、一次試作機の着手から2年7ヶ月を費やしても上手く行かないもたつきに、軍当局は遂に業を煮やしたのだ。 川崎飛行機は、故土井武夫(最敬礼)設計グループが手掛けていた双軽キ-48が完成し、試験飛行の成績も好調なことから、キ-45の再開発を土井設計グループに指示した。軍当局は前提条件を設けずエンジンをハ25型とし、仕様変更も行わず量産命令を発令したのである。土井設計グループは、既に設計している双軽キ-48のデータを参考に、キ-45の基本設計を行った。これはかつて故土井武夫翁が何かの本に「双軽の8掛けで作ったんですよ」書いていた。 【余 談 】 ここでチョッと余談だが、8掛けというのは我々商売でもよく使うのである。「定価の8掛けだよ」言われて本当に8を掛けた奴がいたので、そいつに「商売止めてヒモにでもなれ」と言ってやった。商売で8掛けとか7掛けという言い方は、言わば符丁のようなもので小数点を省いて言っているのである。忙しい中での値決め交渉は、言葉少なに済ませることに越したことはない。「8掛けだよ」と言われたら0.8を掛けろということだ。定価の8掛けといえば、定価の2割引と言うことになる。物を仕入れて売る場合、間に立つ者は自らの労働対価として利益を商品に乗せるのである。 ところで、先ほど言った「商売止めてヒモにでもなれ」と言われた坊ちゃんは、今では課長さんにお成りになり、日々十数名の部下さんたちの尻を叩いて「値引きのし過ぎだ!!」とか「お前達の給料分くらいは捻出しろよ!!」とかイッチョ前なことを言って、胃薬を飲でます。お疲れ様です。 ということで、話がとっ散らかってしまいました。軌道修正して、双軽の8掛けと言うことは、大よそ一回り小さいと考えるべきであろう。機体は改修というより、別設計と言った方が良いと何れの本にも書いてある。確かに-45とキ-45改では双発機であるということと、機首部分からキャノピー付近が似ているくらいなのだ。データを参考にした双軽キ-48は、爆撃機なので胴体中央部に爆弾庫がある関係上、中翼機になっているが、土井設計グループにとって低翼機に作り変えることくらい、造作の無いことと言って良いと思う。 ここにキ-45改という摩訶不思議な機体が難産の末、昭和16年5月に設計を終了した。試験結果は最高速度540km/hを出し、操縦性などの実用性にも問題なく、同年9月正式に誕生したのである。即量産に入って初期生産型はハ25エンジンを使用していたが、間もなくハ25の出力アップ版であるハ102型に換装した。ほぼ、3年9ヶ月の過酷で厳しい開発であった。一方、欧米各国もいろいろな事情を抱えながらも実用に漕ぎ着けたのは、英国ではボーファイターにモスキート、米国ではP38(一人乗り)、独逸国はBf110、仏国はポテ630、ソビエット露国はYak-2、帝國ではキ-45改・月光くらいなのである。 その他、数多の駄作及び失敗機はチョッと大げさに言えば、浜の真砂ほどあるのだ。大所高所から双発複座戦闘機を見渡した時、キ-45改は数少ない成功機と考えるべきである。何だかんだと凡作機とか、八方美人の行けず後家だとか言っているが、こと双発戦闘機に限って言えば、正式採用されるだけでご立派、“大したもんだよ蛙の小便”なのである。 【 製 作 経 歴 】 では、製作経歴に行こう〜〜。これは思い入れと想い出が多すぎて、「そう高木麻早がね〜〜、最近アルバムを出してね〜、お元気だったようで、今後も頑張って下さい………。」は関係ないのよね〜〜。改めて、製作経歴である。最初はマルサン1/100、黄色い箱のあれで記憶が擦れていて良く覚えていないが、かなり正確で確りしたできであった。自分で塗装した最初の機体だったように記憶している。確か、小学二年生の冬休みだったと思う。その次がニチモの1/48で、これは今も売っているので皆さんもご存知だろう。これが、黄色塗り事件の機体である。そして、今回はハセガワ社製1/72で3機目のアイテムということになる。 1/72なので細かいことは兎も角、全体を見渡しスタイルもなかなか良い。特に、機首の丸くなった部分が好きなので、丙や丁型の尖がりには少し違和感がある。今回は甲型に挑戦したが、キ-45改は甲、乙、丙、丁の4機種あるので、お気に入りの機種と塗装のバリエーションが選択できる。年代で、用途や塗装が大きく変わるのもこのキ-45改の特徴だから、いろいろ楽しめると思うよ。 |
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次項に続く→
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