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| 制 作 雑 記 <プロローグ> | |||||
| 平成15年5月初旬 | |||||
| サウンド オブ サイレスという曲がある。歌っているのは、勿論サイモン&ガーファンクルだ。小生の世代なら、知らない者はいないというくらいの曲である。 その当時、流行っていたサウンドやヒットソングは、どちらかというと、ウエストコーストの曲かモータウンサウンドで、ニューヨークを中心としたイーストコーストの曲を耳にすることは無かったと記憶する。 そんな中、サイモン&ガーファンクルの曲が、ラジヲから流れてきた時の衝撃は新鮮で鮮烈であった。 その当時と言っても多少年代が前後するが、GFRのように五月蝿く無いし、CCRのように単調でお人好しでもない、何となく違うのである。 ビートルズやストーンズのブリティッシュサウンドでもない、ミッシェルポルナレフやシルビーバルタンでもジリオラティンクェッティでもない。 イユゥーロサウンドでもない。要するにニューヨークサウンドなのだ。ニューヨークという都市の匂いを“プンプン”させた二人だった。 エウルビスプレスリの「インザゲットー」なる歌を聞いた時、オーティスレディングの「エーメン」を聞いた時、何と言えば良いのか自分の新な扉が開いたような感じがした。 今まで知らなかった悩みが雨粒のように降って来て、考えも意識もしなかった事柄が妙に気になり、知らなければいけないことが高波のように押し寄せて来た。 何から手を付けて良いのやらと考えている内に、高波にさらわれもみくちゃ状態で混乱と混迷の日々である。映画「卒業」のダスティンホフマンの一途さと「アリスのレストラン」のアローガスリーの生き様に共通性はあるのか? 「ブリット」のスティーブマックイーンのジャケットの着こなしに“メンクラ”を買う。自分らしさに悩み、平凡パンチの記事(グラビアも)を読み耽る。 中学生が読む小説100選なる刷り物を与えられた。面倒なので、斜め読みというか字面だけを追いかけて読んだことにした。小説は嫌いではないが、昔の人が書いたのでファッション性に欠けるとぼやいた。 パリコレも無ければ、ニューヨーカーのライフスタイルもそこには無かった。年上のオネ〜さんが「僕、この本読んで見たら」てな〜感じで“ライ麦畑で捕まえて”をわたされる。 オネ〜さんは優しくしてくれた。男にもしてくれた。暗く深い井戸の底も見せてくれた。 働きながら小説家を目指している人と知り合う。季刊「世界文学4(スペイン市民戦争)」を貰う、それまでの小説やエロマンガとは違っていた。 働きながら画家を目指している人と知り合う。「君は絵を描くのか?画に描くのか?画にするのか?」と質問され、答えられなかった。 そんな時、サンテクジュベリの「星の王子様」と出会うと同時にサンテクジュベリを知る。彼の著書を読み、フランス、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、スペインに憧れる。 朝日と夕日が嫌いになり、雲一つ無い砂漠の青空に憧れる。新聞や雑誌のイラストやコマーシャル写真に憧れ、楔型で真紅のガスタービン車のフロントノーズに、大きくSTPのコマーシャルロゴが描いてある写真が宝物だった。 何でも好きになったし、何でも嫌いになった。手にするものは皆輝いていたが、砂のように指の間からこぼれた。好きな交響曲は、ベートーベンの7番イ長調作品92と間髪を入れず答えられた。そんな15歳の誕生日だった。 あれから幾星霜、新たに誕生日の朝が訪れた。家人に「もうすぐ大台ね」とからかわれる。朝刊を読むのも面倒なのでカフェオレを自分で作り、パソコンを立ち上げ仕事のメールを会社に転送した。 TVは、朝からニューヨークヤンキースとシアトルマリナーズの試合結果を大ニュースとして流している。そこにはかつて、新鮮で鮮烈だったサイモン&ガーファンクルのサウンド オブ サイレスを聞いたときの感動は微塵も無かった。 ええ〜照れ臭いが誕生日なんだけど、いい年になるとからかわれるだけなのである。さて、今回のアイテムは何かな〜。今回のアイテムは、旧帝国海軍陸上爆撃機銀河一一型(P1Y1)なのだ。 設計、製作(試作3号機まで)は、海軍航空技術廠を略して空技廠が行った。量産は、中島飛行機が担当した。空技廠は、民間会社ではなく公の機関である。だからどうだということではないが、そういう機関が有るということだ。 陸上爆撃機銀河ということなんだけど、実は一つ疑問があった。旧帝国海軍は、爆撃機なる考え方として艦上爆撃機を意味し、空母を発進母体としない大型の爆撃機は陸上攻撃機と称した。 従って、爆撃機は九九式艦上爆撃機や艦上爆撃機彗星であり、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機は攻撃機だが、どう考えても双発の爆撃機である。 故に、銀河の名称も陸上攻撃機銀河とか、三式陸上攻撃機とか言ってもいい筈なのに、開発当初から一五試陸上爆撃機なのだ。 三式陸上攻撃機と言ったのは、正式採用が19年10月だが、生産は前年の18年8月だからである。別に、四式陸上攻撃機と言ってもかまわないのだ。 しかも、不思議なのは正式採用に至らなかったが陸上攻撃機連山がある。これは一八試陸上攻撃機とされている点で、何故、銀河だけが爆撃機なのか? それ以外の大型爆撃機を攻撃機と称したのか?悩みは尽きないのだが、答えは意外と簡単であった。 旧帝国海軍としては従来の攻撃機と異なって、高速陸上大型急降下爆撃機を新たに開発運用する必要性を認識していたのだった。陸上爆撃機なる新分野には新機種をという状況の下、その栄誉を銀河が担うことになったのである。 そもそも、旧帝国海軍は独軍に於ける爆撃機に注目していた。その当時、主力爆撃機は九六式陸上攻撃機であったが、将来の爆撃機として目指すべきは“ユンカースJu88”とし、その性能を上回るような仕様を掲げ空技廠に要請したのだった。 その内容は当時最新鋭の零戦より早く、航続距離は一式陸攻より長く、1トンの爆弾を搭載し、急降下爆撃、水平爆撃に雷撃もできる万能機であった。まぁ〜、よくもこれだけ虫の良いことを並べたものだと感心するばかりである。 しかし、流石は空技廠、やってのけたのだ.......までは良かったのであるが。実は、ここからが茨の道を歩むことになるとは、お釈迦様でも〜気がつくめ〜〜だった。問題は生産を委託する中島航空機側に有った。 空技廠は世界屈指の技術集団で、技術レベルは超A級と言っていいだろうが、民間会社の中島飛行機はそうは行かないのである。やはり、一段二段と技術レベルは下がってしまうのだ。これはある意味仕方ないことだ思う。 しかも設計はアジア太平洋戦争に突入する前で、戦時下での量産を多少意識したものの、実際量産となると多くの問題が噴出した。当然、量産に当たって変更や改修をやったとは言え、戦時体制化での量産である。 今で言えば、F1に出場できるレーシングカーを大量生産しろと命じられているようなもので、いくら専門メーカーだからと言って、そうそうサツマイモを焼くような訳にはいかないのだ。 |
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| そもそも空技廠の存在理由とは、航空機の新分野開拓とその成果を民間企業に普及させ、技術向上を図る事を旨とした指導的役割を担った研究機関なのだ。 それ故、開発された技術を民間会社に習得させるため、要求仕様を敢えて過酷に設定されている場合が多く、一概に言えないまでも「さぁ〜新型機の量産だ」となると、多少無理が有ったとすべきであろう。 事実、空技廠は次期新型爆撃機の開発要請に及んで、基礎設計が進んでいたY20なる航続性を狙った研究機をあてがうこととした。 この時点で既に野心性が先行していると言えなくも無い。15年末の計画要求書受領に伴い全部門を上げて開発に入り、試作機の完成は17年6月であった。 15年末から数えて1年6ヶ月なのである。これを早いと見るか遅いと見るかは見解の相違だが、量産に入ったのが18年8月で計画要求書受領からこの時点で既に2年8ヶ月の歳月が流れていた。 更に、正式採用までには1年2ヶ月掛かった19年10月である。時系列で見ると解かるように、時間がかかり過ぎと言っても過言ではないだろう。 これが平時であるならばいざ知らず。現実に将兵が死に、飛行機は墜落し、船は沈没しているのだ。勿論、戦争も長引けば働き手は出征して行くし、各航空機製造会社への要求は日増しに厳しさを増す。 一機でも多くの飛行機を生産しなければならないが、人も技術も物資も先細りしていったのである。技術者の不足は、学徒動員でかき集めて来た学生に現場作業をさせたのだ。 以前、俳優の渥美清さん(フーテンのトラさん)が勤労動員で飛行機の翼のネジ止め作業をしていた時のこと、一人の友人が「これこ〜やるとネジ締めしなくてもいいよ。ほらっ。」と言って、ネジ穴を少し大きく開けそこにネジを刺し込んで見せたというのだ。 渥美さんも真似をして、ネジを刺し込んでいたというのをラジヲで聞いたことがある。これが総てとは言わないが、たまたま聞いた顕著な例だろう。 渥美清さんはその昔、ラジヲで野球中継がない冬の間の時間帯、ご自身のお話やいろいろな物語の朗読などして下さった。そんな中、身の上話として話されていたと記憶している。 渥美さん以外では、噺家の柳家小さん師匠が軍隊に入ったはいいが、二・二六事件の反乱軍になっちゃった話なども、その番組で聞いている。 話を戻し、戦時下に於ける開発なるが故の現実で残念であるが、歴史に“もし”は禁句であっても敢えて石原莞爾の言を引用したい。 芙蓉書房出版「秘録 石原莞爾」横山臣平著より、抜粋。 “酒田軍事法廷が終わった夜、UP記者のカリシャー、AP記者のホワイト、それに二世の通訳一人が「ジェネラルの意見を拝聴したい」と言って、石原の宿舎であった酒田ホテルで会見した。いずれも軍事法廷に於ける石原の態度に感激した人たちである。 「ジェネラルは先ほど法廷で『自分が戦争したのであったら、戦争は必ず勝てる』と申されたが、ジェネラルだったらどんな戦争をされたでしょうか」と記者の質問に石原は次のように答えた。 「先ほど必ず勝つと言ったが、少し言葉が強すぎた。五分五分の持久戦になって、断じて敗戦にはならない」と言いなおしてから続けた。 「私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に放棄し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマから、シンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築し、中部は比島の線に退却、他方、本土周辺、およびサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島をいっさい難攻不落の要塞化し、何年でも頑張りうる態勢をとるとともに、外交的には支那事変解決に努力を傾注する。 とくにサイパンの防衛には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、米軍の侵入は防ぐことができた。 米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。それ故サイパンさえ守り得ていたら、ボロなガタガタ飛行機でもなんとか利用できてレイテを守り、当然五分五分の持久戦で断じて敗けてはいない。蒋介石氏がその態度を明確にしたのは、サイパンが陥落してからである。 サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、中国に心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の結合力を利用して東亜一丸となる事が出来たであろう。」と書かれている。 まぁ〜、今から見れば甘い部分もままあるが、こういう戦況下での新型爆撃機開発であるならば、少し話は違っていたと思う。 銀河それ自体に何かある訳ではないが、他の機体に比べ奥深いように思える。この機体が発するオーラが思わせるのだろうか? 何処かインテリジェンスな空気が漂っているのだ。戦後東海道新幹線0系の先頭車の設計は、“銀河”主務設計者である。 三木忠直氏であったことは、最近NHKの番組「プロジェクト“X”」でも取り上げられ有名になったが、この辺りに機体設計の先進性が感じられるのだろう。 前置きが長くなったがこのキットと制作履歴に付いて、まずキットはハセガワ社製でスケールは1/72、パケージの絵が良いね〜。 雲海を滑るように飛行する2機の銀河、全体を緑色にしているのが風雲急を告げるって感じが出ている。ついでに言っておくが、デカールはK501飛行隊のみで、制作履歴はありません全くの初物である。 小生はなぜか爆撃機となると、米軍機が多い。ちなみに列挙してみる。 旧帝国軍機 百式重爆キ−49(1/72レベル社製) 四式重爆キ−67(1/72アリイ社製[旧LS社製]) 九九式双軽キ−48(1/72ハセガワ社製) ※ 3機種3機 米國軍機 B−17E型? (1/72レベル社製) G型 (1/72ハセガワ社製) B−24D型 (1/72レベル社製) PB4Y−1型 (1/72レベル社製) B−26C−5型 (1/72レベル社製) B−29 ?型 (1/100?1/144?) ※ 3機種5機 まぁ〜、こんなもんであるかな〜〜。 |
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